昭和17年 3月25日、鹿児島県大島郡瀬戸内町西古見に、四人兄弟の長女として生まれました。
昭和23年に、瀬戸内町立西古見小学校に入学しました。
小学校3年生のときに、家族でトカラ列島の口之島に引っ越しましたので、同地の口之島小学校に転校しました。中学校も、そのまま口之島中学校です。
今では口之島も人口が減っているそうですが、わたしが学校に通っていた時分は、同級生は14人おりました。やっぱり、複式学級だったんですけどね。昭和32年に口之島中学校を卒業して、集団就職で愛知県一宮市の紡績工場に勤めることになりました。
昭和39年まで勤めたんですが、たいへんでしたよ。昭和40年に、西古見の小学校で同級生だった人と結婚して、兵庫県の尼崎で暮らすことになりました。
昭和41年に、長男が生まれました。
昭和44年に、長女が生まれました。これは、いま店を手伝ってもらっています。
昭和47年に、次男が生まれました。
昭和53年ころから、尼崎の民謡保存会でしま唄の練習をはじめました。先生という人は、とくにいませんでしたね、そのころは。みんなで唄って楽しむというかんじで。
そのころでしたね、築地俊造さんにはじめて会ったのは。尼崎の郷友会に唄いにいらっしゃって。けっこうイイ男でしたよ。あ、いまでもね、はい(笑)。昭和55年に、南海日日新聞の民謡大会に初出場しました。成績はねぇ、出ただけですから、その時は。
そのときに、築地さんが民謡日本一になったビデオを見ました。びっくりしましたよぉ。これは頑張って練習しようと思いました。昭和56年に、家族で奄美に戻ってきました。「まんこい」という、うどん屋の雇われ店主でした。坪山豊さんに、本格的にしま唄を習いはじめたのは、それからですね。その年に、吉永武英さん主催の民謡大会で新人賞をいただきました。
うどん屋が一階でね、二階がずっと空家、三階が坪山さんの住まいで。だから坪山さんが自転車で帰って来ると、晩ご飯を食べ終えたころを見計らって、「坪山さ〜ん、稽古してぇ」って(笑)。昭和58年に、南海日日新聞の民謡大会で、奨励賞をいただきました。
この年の7月21日に、今のお店”かずみ”を開店しました。
昭和59年に、南海日日新聞の民謡大会で、新人賞をいただきました。
昭和60年に、南海日日新聞の民謡大会で、民謡大賞をいただきました。
それからは、いろんな舞台に出ましたねぇ。アメリカのスミソニアン博物館で唄わせていただいたことも、おおきな思い出のひとつですねぇ。平成14年の7月21日に、名瀬市のAIAI広場で、「かずみ」開店二十周年記念を、大勢の唄者に来て貰って盛大に祝いました。
平成15年の2月に、脳出血で倒れてしまいました。
おもえば無茶な生活でしたからね。平成15年12月に、鹿児島での「奄美群島復帰五十周年記念イベント」で本格的な舞台復帰ができました。
毎晩、二時、三時までお店をやって、もう、ビール大好きですから一晩で1ケースぐらい飲んじゃって、お店を閉めてからカラオケに行って、それで翌朝、ゴルフに行ってましたからね。
病気とは無縁でしたから、健康保険なんか「なんでこんなものにお金を使うのか?」なんて言ってたんですけどね。
でも、おかげさまで、他の人と較べたら経過は順調みたいです。
平成16年 3月に、名瀬市中央公民館で「元気になりました 西 和美しまうたコンサート」を開催しました。
10月に退院するときにね、病院のロビーで、お世話になった先生や看護婦さん、入院中のみなさんへお礼も兼ねてミニ・コンサートをしたり、親しい人のお祝いなんかでは唄ったりもしていたんですけどね、大きな舞台や、島外の仕事はお断りしてたんですよ。平成16年 8月に、映画「アダン」の挿入歌を唄い、ちょっとだけ出演もしました。
鹿児島に行くときも、怖かったから、みんなにお世話になってね。
中央公民館で、一年ぶりに十八番の「雨ぐるみ」を唄ったんですけど、力の要る唄だから、きちんと唄えるかどうか不安だったんですけど、どうにかこうにか(笑)。
若い子のレコーディングなんかも手伝ったり、倒れる前ほどじゃないけど、唄えるようになりました。
お店はね、娘や仲間に手伝ってもらって、定休日(日曜日)もちゃんとして、毎晩11時で閉めるようにしてます。
平成17年 5月に、「西 和美 公式HomePage」がはじまりました。